2008年12月31日水曜日

Try to remember・・・ 4  瀬戸國勝さんの漆器





11月1日から9日まで、輪島で漆器作りをしている瀬戸國勝さんの漆器の会を開きました。あまねや工藝店に、単独で塗り物を並べるのは実に20数年ぶりです。これだけ間があいた理由のひとつは、店の側では単価の高い漆器は売りづらく、作る人にとっても売れなければ仕事として成立せず、お互いに遠慮してしまうのです。まして今年の大不況ですから、腰が引けるのも当然です。ただそれを理由にしていると、永遠に売れる物を追い続けるだけの、流行もの主体の情けない店になってしまいます。この会を切っ掛けにして、漆器の事をもっと皆さんに知って頂く努力をしなければと改めて思いました。
ところで、いつも当店に置いている、いわば「あまねやスタンダード」の漆器は二つの産地の五種類程です。秋田県川連(かわつら)の漆器と、長野県木曽平沢の佐藤阡朗さんの工房の物です。それぞれ25年以上置き続けていますが、経済的な問題でこれ以上種類を増やせないのが悩みです。さて、それらの品に比べると瀬戸さんの漆器は全体として、加飾法の大胆さ或は作る品の間口の広さが印象に残ります。
しかし今回店に並ぶのは椀や木皿を中心にした、瀬戸さんの考えるこれからの時代の漆器のスタンダード80種程です。輪島の定番である合鹿椀、或はその小型版である藤井椀。又、栗の木地の木目をサンドブラストの様に強調して浮き立たせ、その結果つかう際に出来るすり傷などを気にせず使える(きずつける事を奨励している訳ではありません、念の為)盆や木皿。また、木地に最初から細かい模様(とびかんな)を付け、これも結果として傷が目立たない様になっている朱の木皿など、大きく変化している暮らしの中で、漆器が矛盾なく日常生活の中に入って行ける事を考えた、技法上の工夫が目立ちました。
その他、三つ椀や朱の楕円重さらに練行衆盤の美しさも忘れられないものでした。

2008年12月30日火曜日

熊井さんの事




先週の日曜日、前々からお約束をし、楽しみにしていた彫刻家・熊井和彦さんのご自宅をお訪ねしました。同行者は森貴義君。彼の作っているガラクトーイが、彫刻家の熊井さんの目にはどう映るのか、それをお尋ねするのが目的のひとつです。約束の昼過ぎに、久留米近くの私鉄の駅までお出迎え下さり、まず石の彫刻をなさっているという広川のアトリエまでお連れ下さいました。アトリエとは云っても、石材屋さんの一隅に間借りをし、そこで制作に励んでおられる由。晴れた日には普賢岳が見えるとおっしゃる、小高い丘の上に位置するのどかな所です。そのアトリエでのお話しの中で印象的だったのは、熊井さん御自身が形を求める人であるにも関わらず、素材としての何もしない状態の石材の美しさを語られた事です。ご自分の仕事に対して、誠実で正直な人だと思いました。
実は、熊井和彦さんは川島玲未さんのおじさんに当たる方で、初めて出会ったのも川島さんの催事の時です。何をどう話したのか今は思い出せませんが、玲未さんそっちのけで話に花が咲き(玲未さんごめんなさい)、私の好きなイタリア・ミラノに30数年もお住まいであった事や、福岡のみならず日本でも有名な彫刻家・豊福知徳氏のお弟子であられた事。「居合い」の達人でもあり、イタリアにお弟子が大勢いらっしゃる事、等々。
さてご自宅は町中でありながら、敷地が200坪程もある大きな和風のお家です。かつてお住まいだったもっと繁華な町中のお家の一部を移築したとおっしゃる御茶用の炉を切ったお座敷があったり、その隣にお茶室がしつらえられて有ったりととても立派なお住まいです。
ご家族はミラノにお住まいで、ご自身は住まいの一番奥、台所隣の食堂兼居間と隣りの畳敷きのお部屋で、一人で暮らしていらっしゃるのだそうです。テーブルに座ると、まず煮物が2種出て来ました。牛肉と牛蒡を炊き合わせたものと、人参・里芋とさつま揚げを炊いた一品です。失礼ながら、まず美味しいので驚きました。それからいろいろ話に花が咲き、かつての愛車がアルファロメオのジュリエッタであったとか、今ご愛用のチェロがガダニーニ(だったか?)の弟子の制作したものであるらしいとか(中にそう書いた書き付けが張ってあるとの事ですが、なにせイタリアですからね)。でも自分の仕事の事をどう上手く言いくるめられたとしても、私だったらジュリエッタに乗っていたと聞かされるだけでその人の仕事を信用してしまうでしょうね。
閑話休題。さて、肝心の森君のガラクトーイについても色々お話を伺う事が出来ました。しかし今はここには書きますまい。話がはずみ、お酒もすすんで帰りは夜の9時過ぎになっていました。

Try to remember・・・ 3 玲未さんの事





10月4日から12日まで、川島玲未さんの「へんな人達」60人程と文庫版のブックカバー数十枚を店の二階に並べました。催事の約束をしてちょうど1年目の事です。
昨年秋に別の用で出掛けた八女で、玲未さんの「へんな人達」に初めて会いました。引き合わせてくれたのは、八女市内で「朝日屋酒店」をやっている高橋さん。二人のお嬢さん方が、彼女達のファンなのだそうです。玲未さんが作るのは一種の縫いぐるみですが、その作り方が変わっています。まず手持ちの端切れで、様々な形の小さな布のクッション様の物を作り、次にそれらを任意に(といっても、ある納まりを見つけて)組み合わせた結果、そこに人形が出現するのです。話を聞いてみると、もともとは刺繍(インドのカンタを見てからだそうです)をやっていて熊本でそれらを並べた時、場が埋まらず刺繍より早く出来る人形を作り始めたのだとか。私の目には刺繍よりも、遥かに玲未さんの表現になり得ている様に見えました。世界を見れば、それぞれの土地にそれぞれの表現の一つとして愛すべき人形がたくさん有ります。玲未さんの作る物は、それらに比べると遥かに個人的な色彩の強い物ですが(その作り方ゆえでしょうか)、ねらい過ぎない良さが夫々にあって、私は好きになりました。でも何よりなのは、それが玲未さん個人の表現として、魅力的なものである事。工芸の領域の仕事の中には、若い人の魅力的な仕事をなかなか見いだす事が出来ず、いささかうんざりしていた私にとって嬉しい出会いのひとつでした。嬉しかった事をもうひとつ。物並べの日に東北から二人のお客様があり、玲未さんの「へんな人達」を買って下さった事。しかもその内のお一人が、仕事の厳しさで知られている、ホームスパンの織り手・蟻川喜久子さんだったので尚更でした。
さて、催事のふたが開くと、玲未さんのお客さんであろう若い人達が圧倒的に多く、びっくりするやら、感心するやらでした。
この先に光あり。

2008年12月10日水曜日

雪の降った日





12月5日に唐津・基幸庵から7個口で荷物が到着。4日に車2台で持って来て下さったものと合わせると、20個以上の荷開け。詰め物の新聞紙の整理、段ボールの片付け。三カ所開催の最終地なので当たり前とは言いながら、考えると気が遠くなりそうな作業量です。2006年の浦和の催事でも、40個口の荷物を6・7人で延々と片付けた事が思い起こされます。新聞紙にくるまれた品物を取り出し、棚や床に置く。新聞紙の中から品物を取り出し、その新聞紙を畳んで段ボールに入れる。それをおよそ数百回続けると、新聞紙の固まりであった物が、床の上にその全容を現します(なんか大げさですね)。
その中で、並べやすそうな品やコーナーをまず選び、とりあえず一度並べてみます。それを繰り返す内、絶望的大量の、ほとんど洪水状態に見えた作品が少しずつ少しずつその数を減じ、再び床が見える様になってくる時の嬉しさ(これは実感です)。そして重複したもの、棚に並びきれないものを選んで再度箱詰めする。こんな段取りで会場に作品が並ぶのです。誤算であったのは、坂本さんが「民藝館賞」の授賞式出席のため、物並べの手伝いが全く出来なくなった事です。ここはひとつ細君と二人で頑張るしかないと思っていたところへ、仕事で超多忙を極める八女・朝日屋酒店の高橋さんから電話があり、「小鹿田の新作展を是非見たいので、仕事が終わった後お邪魔したい。9時頃には行けます。」との事。この御仁、若い人ながら気配りが行き届いていて、見習いたいくらいです。約束通り9時過ぎに高橋さん来店。ご厚意にあまえ、12時過ぎまであれこれの事を手伝って頂き大助かりでした。2時頃まで粘りましたが展示作業は終了せず、後は明朝と云う事にいたしました。
さて、2008年小鹿田・坂本工窯新作無地シリーズ展の最終地、福岡での展観初日の6日はひどい雪降りになりました。まず心配したのは、授賞式のため上京した坂本工さんが、無事福岡に戻って来れるかどうかと云う事と、本夕来福予定の夫人とお嬢さんが小鹿田から、出発出来るかどうかでした。(幸い?)お客様が少なかったため、その日の午後にはなんとか物並べも終わり、店の格好がつきました。夕方には、坂本夫人とお嬢さんも無事到着。話を聞くと、いつもの乗用車ではなく、四駆の軽四輪で地道を走り2時間半掛けて福岡までたどり着いたとの事。初日を無事に終え、記念祝賀会会場の一刻堂へ。
こちらのご主人Fさんは、3年前の個展の折にも坂本さんの作品をいろいろ買って下さり、またお店で実際に使って下さってもいて、私どもには有難いお客様の一人です。さて、待つ事30分あまり。坂本工さんも、空港までのお迎えをお願いした御友人と共に到着。他に坂本さんの友人夫婦一組。総勢8人で、今回の受賞を祝って乾杯。12時頃まで愉快に過ごしました。

2008年12月4日木曜日

鹿児島からの帰途、“手強い”味方に出会った事


鹿児島展の初日の幕が開き、福山帰りの坂本夫妻と私の3人は、午後4時過ぎに会場の「可否館」に到着。若い人達がたくさん来て下さる事に驚きました。夜になり、永田さんお心尽くしのオープニングパーティが始まりました。コーヒーとサンドイッチでと聞かされていた私たちは、帰り着く前にコンビニでビールと酒のつまみを、ひそかに用意。皆さんがコーヒーやサンドイッチを召し上がっている間もビールを飲んでいましたから、実は会場の皆さんのひんしゅくを買っていたのではないかと、恐縮している次第です。翌16日、たまたま帰る途中の人吉で個展をやっている丹波のSさんの個展会場であるG民芸店にお邪魔する事にしました。昼頃、人吉に着けるよう鹿児島を出立。人吉で評判のUうなぎ店でうな重を食べる計画です。昼食後、会場へ。丹波のSさんは、私の尊敬する現役作家の一人です。大学を出た後、丹波篠山の個人作家であったIさんに師事。独立後30数年をへた今、廻りの若手の作家達から目指すべき作家の一人として尊敬を集めています。いったい個人作家と云うのは、どういう人達のことを言うのでしょうか。まずは、その人自身の作った物の中に、明らかに一つの定型(スタイル)が見て取れる事。そして作り手として更に先に進む為、その定形を壊し続ける人。陸上競技にたとえれば、短距離と長距離を走り切る体力の持ち主である事。1回1回の個展は短距離走であり、それを長く続けるのはマラソンの様なものでしょう。これらの事を考え合わせると、作家として活動し続ける事は並大抵でない事がわかります。このSさんに福岡での新作展案内状を、お見せした時の事です。坂本工さんが作ったイタリアの皿に由来する縁の広い大皿について、一言ありました。皿の外見だけを見れば、いま誰でもが作っている”流行もの(はやり)”にしか見えませんから、Sさんに何か云われても仕方ありません。Sさんの云いたい事を忖度すれば、流行の形をなぞるのでなく自分の足許をよく見てもっと勉強なさいと云う事でしょう。皿自体を見る限り、7寸や8寸の皿は新作として可能性がある様に私には見えます。どうすればそれが小鹿田窯の新作として定形(スタンダード)になり得るか、その事をもう少し考えてみたいと思います。Sさんは私にとっていわば“手強い”味方の一人、大事にしたいと思っています。その後、G民芸店主人Uさんのコレクションの内、沖縄の陶工 金城次郎の仕事をまとめて見せて貰う事が出来ました。沖縄の風土そのものが、作品の向こうから吹き出してくる様な強いものを感じます。
地域に深く根ざした工芸はかくありたいと思いました。私には有難い時間でした。

鹿児島で苗代川の酢がめに出会った事




鹿児島滞在3日目の今日は、いよいよ鹿児島展の初日です。大事な初日なのですが永田さんに無理を言って、坂本夫妻と私の3人は霧島市福山の福山酢いわゆる薩摩の黒酢を造る工場を見学に出掛けました。鹿児島に出掛ける前は、30年ぶりの鹿児島だから美山地区に出掛けて苗代川焼でも見て来ようと思いもしたのですが、今の事情を聞いてみると出掛けなくともよさそうです。代わりに苗代川の酢がめを使って黒酢を作っている福山に行く事にしました。宿から車で桜島に渡るフェリー乗り場へ。15分程で桜島着。それから小1時間程走って黒酢を作る福山地区へ。8軒のメーカーが黒酢を作っており、ちょっとした運動場くらいの広場に見渡す限り酢がめが並んでいます。ただ予想に反して、並んでいるかめの大半はどうやら苗代川焼ではなさそうです。後で聞いてみると、40年程前から苗代川では酢がめを作らなくなり、信楽焼また、最近は価格の点で韓国や台湾の物などが多いとの事。しかし、執念で見つけました。あるメーカーの酢がめが並べてある広場の隅の方に、ひっそりと10数本の酢がめが横になったり臥せられたりしています。酢がめの蓋もそば釉に発色した感じの良い物です。残念ながら、金網越しなので手に取る事は出来ませんが、100年以上は経っているとおぼしき優品です。後にそのメーカーで頒けて貰えるかどうか聞いてみたところ(私ではありません)、にべもない返事です。でも考えてみたら、欲の深い人は何も我々だけではない筈ですからあたりまえです。酢がめに心を残しつつ、別のメーカー経営のレストランで昼食。最後に、福山地区の入り口に有る小さなメーカに立ち寄って壷の中を見せてもらったり味見をさせてもらったりした後、展覧会場の可否館へ向かいました。本番はこれから、とても楽しい半日でした。

2008年12月3日水曜日

嬉しい知らせ 新作展へのご褒美




11月27日から唐津で始まる小鹿田・坂本工窯 新作シリーズ展の準備の為、26日の昼過ぎに「基幸庵」に参りました。鹿児島に続く2カ所目の会場で、お店から間近に唐津城を望む事が出来る絶好の場所です。お店が新しくなったオープン記念にとのお約束が、ちょうど1年繰り延べになったのですから、ここはひとつ頑張って私の担当である物並べをしなければなりません。そうこうする内に坂本工夫妻も到着。前日に鹿児島から到着した荷物の開梱作業を終え、もの並べを始めてしばらく経った頃、東京・駒場の日本民芸館から坂本工さんに連絡があり、2008年度の日本民芸館賞を坂本さん出品の「白釉無地睡蓮鉢」が受賞したとの事。そこに居あわせた皆で、思わず拍手をしてしまいました。作り手にとってハードルの高い「無地」をテーマに据えた張本人である私も、一緒にご褒美を頂戴出来た様な気持ちになりました。その夜、基幸庵のIさんお心尽くしのお料理、呼子から来た漁師さんが目の前で烏賊や鯖・鯵などを「活き造り」にしたものを、御馳走になりながら改めて祝杯をあげ、坂本工さんの民芸館賞受賞と唐津展の成功を祈りました。宿に帰ってからもビールを飲み続け、あちこちにメールや電話をして迷惑をかけ散らした挙げ句、ベッドに入ったのは午前2時を過ぎていました。やれやれ。

2008年11月24日月曜日

Try to remember・・・  2




まだ暑さの残る9月21日から1週間、八女の朝日屋酒店に於いて「山本教行作陶展」を開催いたしました。朝日屋さんでやって頂く催事としては,昨年秋の「西川孝次吹きガラス展」以来2回目になります。本年5月の「山本展」終了後、その朝日屋の高橋さんと一緒に残った荷物を車に積んで、鳥取県東部の岩井町にある山本さんの工房までお返しに上がった事は、最初のブログでご報告した通りです。その折の、山本さんの暮らしぶりや工房のたたずまいに至るまでが、若い高橋さんに強い印象を残したらしく、喜んで引き受けて下さる事になりました。
初日前日の20日に、私の担当である物並べに朝日屋さんにお邪魔しました。会場がお酒屋さんでもあり酒器が少し多い事をのぞけば、いつもの個展と同じ食器類や土鍋類を含む百数十点が用意されていました。前回と違って、物を並べる棚を作る必要もなく意外に早く作業が終了。市内で食事をした後,明日のオープニングパーティに備え、早くやすみました。
21日の昼前に、鳥取から山本さん御一家と御弟子さんが到着。今夕のパーティに使う食材ならびに,コップ類から食器に至るまですごい量の荷物と一緒です。30年近く前、初めて伺った山本邸で私も経験済みの、山本夫人・房江さんの手になる美しく且つ美味しいお料理は極めて強い説得力を他人に対して持っています。
案の定パーティ開始が近づいた夕刻には、遠く熊本や宮崎などからもお客様がお見えになり、私どもを含め30人程の人が用意された御馳走と、繁枡のお酒数種併せて五升程を胃の腑に納めました。ちなみに食材はすべて,山本さんの工房のある岩井町の地元産の鮎・猪・鹿などを使ったお料理でした。

2008年11月23日日曜日

菖蒲学園 訪問の事





鹿児島を訪問する前「菖蒲学園」の学園長 福森さんに連絡を差し上げて、14日金曜日に学園をお訪ねする事にしました。この朝、鳥取から夜行バスを乗り継いで可否館に来てくれたG女史ともども総勢5人。昼食は学園のレストランで食べる事にして、可否館の永田さんにご案内頂き1時過ぎに「菖蒲学園」へ。まずはレストラン「お多福」に行き、皆でパスタ定食を食べました。モダーンで綺麗な建物、聞けばテーブルや椅子は福森さん御自身の作であるとか、最初の驚きがここから始まりました。私はクリームソースの生パスタを頂きました。美味しい上に安くて(950円)びっくり。昼食後お別れした永田さんをのぞく4人を福森さんご自身で、園内の工房や住居棟を長い時間ご案内下さいました。私がこちらをお訪ねしたいと思ったのは、今年の7月友人の住むメルボルンに出掛けた折、朝食を取る為に入ったカフェで知的障害を持つ人達の絵の小さな展覧会をやっていて、その仕事が私には何とも素敵に見えたからなのです。
さて、知的障害を持つ人達の為の施設「菖蒲学園」には、縫い(刺繍)、木工、焼物、和紙の他平面の仕事やレストランなどで、入所している人や通って来ている人が仕事や作業に従事しています。ご案内頂く福森さんのお話しの中で興味深く聞いたのは、比較的障害の重い人達にとっては、具体的な作業そのもの(例えば布を糸で刺す、或は刃物で板に傷を付ける)の中にそれぞれの興味があり、その作業が終わると自分が手掛けた(例えば2年がかりでシャツにびっしり刺繍をした)ものに対する執着は、なくなるのだとか。出来上がったものに対する思惑(果たしてこれが幾らに売れるだろう等の価値観)に左右されている我々には、耳の痛い話です。その後、ご案内頂いた住居棟では、使われている無垢の建築素材や設備の充実している事に驚かされました。そして、なるほどと思いさもありなんとも思ったのは、これらの施設が出来てから入所者の人達の情緒面が、とても安定して来たとのお話を福森さんから聞いてからです。私たち自身の住まいを考えてみても、そこで使われている素材の大半は偽物です。木の振りをした床材、木目の模様をプレスした外装材等々。私自身、ある時東北行きの新幹線の窓から外を眺めていて、さてどの辺だったのでしょうか、1軒の家のほとんど全てが石油製品の加工品で出来た家々が、ずらりと並んでいて唖然とした事があります。周囲の自然や風景との何と云う落差。話が脱線しました。最後に、出来た物や作品をストックしてある場所で「平面の仕事」を拝見し、来年早い時期の再訪を約して、福森さんとお別れいたしました。私にとって充実した1日になりました。

2008年11月21日金曜日

30年ぶりの鹿児島





オーストラリアにいる娘に、「私が読みたいから・・」と言われていやいや始めたブログなので、それを書き始める時間が例えば夕食後だったりすると、ビール(第3の)も入っていて面倒になりついずるずると2ヶ月も間が空くなどと云う事にもなる訳です。
今日は自宅でやらねばならない仕事があり,それに取りかかる前に1本書いてしまおう(実は忘れないうちに)と思い立ち、かく書き始めた次第です。
さて,前回のブログにも書きました様に、小鹿田・坂本工窯の新作展開催準備の為、先週の木曜日から30年ぶりの鹿児島に出掛けて来ました。
会場は,開店25年程になる老舗のコーヒー店「可否館」です。店主の永田さんは,もともと焼物を始め民藝品が大好きな方で,お店でも業務用に色々なカップをお使いになっており、お客さんに頼まれれば,頒けておあげになっていたとか。店にお勤めのYさんやHさんが,たまに当店を訪ねて下さり,しばしばお買い上げを頂きました。
そんな経緯も有って、坂本工窯の新作展会場候補としてお声を掛けたら快諾して下さったのです。さて13日の早朝,特急と新幹線を乗り継いで「鹿児島中央駅」へ。Yさん・Hさんのお出迎えを受け、会場の「可否館」へ。店の普段のしつらえを少し変えて,物を並べる場所を作っていて下さった事と荷解きをお願いしていたので、コーヒを御馳走になった後すぐに作業に入りました。普段ご自分のコレクションを並べておられる棚を空けていて下さったのですが、棚と棚との間に充分な余裕がなく大苦戦。汗をかきかき、その間に美味しいコーヒーやらスポーツドリンクやらを御馳走になってなんとか夕方に終了。催事のおりの当店では,物が並んだ状態しかご存じないYさん、Hさんはびっくりなさったみたいです。
夜は,坂本さんの高校時代の大親友夫婦と,夜の天文館へ。私はくたばって一足先に失礼しました。14日は,楽しみにしていた「菖蒲学園」訪問。お昼をご一緒して下さる永田さんのご案内で、坂本さん夫婦ともども学園へ。聞けば、学園長の福森さんとも以前からの顔なじみでいらっしゃるとか。不思議なご縁としか言いようが有りませんね。
その「菖蒲学園」訪問以後の事は,また次回。

私たちのやって来た事、やろうとしている事






今月24日まで鹿児島で、その後唐津・福岡の順で小鹿田・坂本工窯の「新作 無地シリーズ」の展観を行う事になっています。
以下の文章は,その展観に際しシリーズの経緯を説明する為に私が書いたものです。

2006年11月に友人の柳沢敏明さんがやっている埼玉・浦和の柳沢画廊で「あまねや工藝店」としての 催事を引き受けた時、頭に浮かんだのは会場が美術画廊である以上見に来て下さる方々は、主として平 面の作品を多く見慣れておられるに違いない事、したがって企画の柱になる作品は平面に近いものの方 が、見て頂き易いのではないかと云う事でした。
そこで、その前年当店催事として行われた「小鹿田・坂本工(さかもと たくみ)窯の仕事展」に出品された 尺一寸皿100枚を用意し、それを催事の中心に据える計画を立て、坂本工さんに相談をいたしました。 まず、この試みが一回きりのものではない事。現状を見る限り、今の小鹿田窯の仕事そのものの中にこれ から先の時代につながる可能性が(私には)見い出しにくい事。であるとすれば、今それに対して何らかの 形で具体的な提案をすべきではないか、ただしそれはすぐには実を結びにくい事。 小鹿田窯のこれ迄の三百年を考えれば、三百年先に元をとるくらいの覚悟でやらねばならないだろう事。 こんな無茶な私の提案を概ね、坂本さんが呑んでくれたお陰でこの企画が実現する事になりました。

坂本工窯の窯焚きは、1年に平均で5回です。これまでは、作られる品のほとんどすべてが注文品であり 特に腕の良い坂本工さんは、料理研究家の辰巳芳子さんに見込まれて、彼女の案になる「擂り鉢数種」の 制作に忙殺されています。 注文をこなしてさえいれば家業は安泰である筈なのに、見込みの立ちにくい新しい仕事を坂本さんが引き 受けて下さったのは、説得に応じてと云うより私への並々ならぬ御好意の故だと、勝手に思っています。

さて、一年で尺一寸の皿100枚を準備するのは、口で言うほど容易な事ではありません。
これを単純に 5回の窯に割り振れば、1回につき20枚の皿を用意すれば足りる計算になります。しかし、窯に入れた 皿の全てが作品として採れる訳ではなく、焼成の前に素焼きをしない「生掛け」と呼ばれるやり方で仕事を 進めて来た小鹿田窯の場合、焼き割れや歪み、生焼け等々の不良品が発生する確率がひときわ高いの です。それらの諸条件を考えれば、まず必要とされる量の3倍、300枚が1年間の目標枚数になります。
しかし、数への見込みはこれで良いとしても、「何をどのように作っていくか?」これはもっと大きな問題 です。 この計画を進めて行くに当たって、実作者でない私に出来る事と出来ない事、やって良い事、 いけない事を、自身の中ではっきりさせる事が必要でした。 まず決めたのは、次の様な事です。
「何を作るか」については作り手の坂本さんが決める事。作る物のヒントや切っ掛けになり得る古今の様々 な品々を持ち込んで見て貰ったり、出来上がって来た物への感想を述べる事、更に展覧会に出品する物、 しない物の選択は私が責任を持つ事にして、坂本さんの仕事が進むのを待ちました。
「窯が開いた」と連絡を貰う度に坂本家に出掛け、窯出しされた作品の中から展覧会に出すべき品を選ぶ、 そして夜は、奥さんの嘉代さんの手料理と酒を食べかつ呑みながら、遅く迄あれこれの事を語り明かす。 この繰り返しは、私にとって実に楽しい経験であり充実した時間でしたが、作り手の坂本さんには苦しくも あり、不安でもあったに違いないのです。それでも、なんとか目標の数を作り終え「抽象紋の皿100展」と 題し、2006年11月2日から14日迄、前述の柳沢画廊で無事開催にこぎつけ、幸い好評を得ました。 その時の模様は、以下の柳沢画廊のホームページのアドレスにアクセスすれば、ご覧頂ける筈です。
http://www5.ocn.ne.jp/~gyanagis/

今年2008年度の坂本窯・新作への試み「無地シリーズ」は、小鹿田窯の仕事を更に源流へとさかのぼり、 「化粧(模様)」の意味を確認する為に、加飾を施さない裸の形を探り求める処から、改めて出発しようと云う ものです。作り手にとっては更に厳しい課題が続く事になりました。来年はその課題を踏まえた上で「模様 の発見」へと向かい、その後「標準(スタンダード)への提案」と計画を進めて行く事になります。2年後の2010年には福岡と埼玉・浦和での展観を
終え、ひとまず「新作の発見シリーズ」を終了する予定です。
これらのシリーズは,それぞれ独立したものでありながら互いに深く関わり,課題もまた一年で解決されるものではありません。私たちのささやかな試みの幾つかが,いつか野草の様に小鹿田の地に確実に根をおろし,静かに拡がって小鹿田窯全体の定型(スタンダード)の
一つとして受け入れられ,続いて行く事。
これがこのシリーズの目標であり,私たち二人の願いなのです。

2008年11月12日水曜日

十回の深呼吸の為に





昨年の8月、友人のカメラマンから25年程たった古いポタリング用の自転車を貰いました。手を入れて、自宅から太宰府天満宮までの往復約8キロ、時間にして30分程を朝早い時間に走ってみる事にしました。中学時代から走り慣れた道、自宅から坂本の部落へ下り「太宰府政庁跡」を東に進んで、「観世音寺」の裏から白川沿いに走った後、天満宮の参道を上り太鼓橋手前の大鳥居をくぐって、また自宅まで。とても気持ちのよい道です。走り初めて気がついたのは、その時間に出会う同年輩の人達の数の多いこと。歩く人、走る人、自転車の人もいます。そして、ひと月ふた月と続けているうち、自然に目に入る風景の移ろい、稲田や周囲の山々、寺院の木々の変化などに改めて気づかされました。この朝の散歩の中で、私が一番好きな事。坂道を「太宰府政庁跡」へと自転車で下りながら、胸を大きく開き十回程する深呼吸です。この十回の深呼吸の為だけにでも、朝の散歩を続けたいと思っています。今朝見ると、観世音寺の南京黄櫨(ナンキンハゼ)が色づき始めていました。

2008年11月10日月曜日

Try to remember・・・




前回のブログからはや2ヶ月半。9・10月の2ヶ月に何もなかった訳では勿論ありません。
たぶん色々な事があり過ぎて自分の中でうまく整理が出来ず、言葉を紡ぐまでに2ヶ月の時間が必要だった、と云う事にしておきましょう。手元の忘備録をもとに2ヶ月を振り返り、書いてみます。9月第1週の土曜日に、娘婿の両親、ダイアンとデボンが来福。最初の夜、一緒に行った友人のすし処「Y」で印象深かったのは、彼らの味に対する正確な判断力でした。
シドニーにも日本風の寿司屋があると云う話は聞いていますし、そこで出てくる寿司が日本のものとは少し違うとも云います。そんな中、決してオーソドックスとは云いがたい「Y」の寿司をその美しさも含めて、ちゃんと理解して賞味している事に感心したのです。
デボンなどは、付け合わせの、生姜を何度もおかわりしてYを嬉しがらせて(?)いました。

翌日は、日頃から付き合いのある小鹿田窯のS家に寄り、山間の小さな焼物を生業にする集落の風情を楽しんだ後、熊本県・小国の奥にある「小田温泉」に一泊。
日本滞在中に、日本式の旅館に泊まってみたいと云っていた彼らへの我々からのプレゼントのつもりです。夕食に「馬刺」が出たりして、少し心配しましたが、全く問題なし。露天風呂も楽しんでいました。翌日我が家にもう一泊。長崎に行くと云う彼らを送って、乗換駅のある鳥栖まで夫婦2人で行きました。福岡滞在中デボンはひどい咳をしていたので心配していましたが、電話で尋ねると「長崎で病院に行ったとの事」一安心です。その後、東京に回り21日に成田から無事に帰国しました。3週間の日本滞在中、何が一番心に残ったか聞いてみたい思っています。続きは、また次回。

2008年8月7日木曜日

エミリーの事



暑いさなかの日本に帰り着くと、一冊の本が私を待っていました。7月28日まで東京の新国立美術館で開催されていた「エミリー・カーメ・ウングワレー (Emily Kame Kngwarreye) 展」の展覧会カタログです。聞けば友人の1人が届けてくれたものだとか。メルボルンの美術館で、オーストラリアの先住民であるアボリジニの作った「盾」に感心したばかりだったので、不思議な符合を感じました。そのカタログの紹介によれば、彼女はオーストラリアのほぼ中央「北部準州」のユートピアと呼ばれる地域で一生の大半の時間を過ごし、80歳前後だった1988年頃に初めて絵筆を取って、亡くなるまでの8年間におよそ3000点の絵画作品を残したとされるアボリジニを出自とする女性の画家です。3000点と云う数にも驚かされますが,その表現の持つ訴求力の強さは,驚くばかりです。これが正規の美術教育も受けず,まわりに画集や美術雑誌すらない辺境(相対的なもので,私達から見れば)にすむ老女の手から生み出されたものと聞かされると、信じられない様な気がします。目の前にそれらの作品を見ていてもです。
ただ見方を変えてこれらの絵画作品を、個人の才能の賜物と云うより、彼女自身がその出自として持つアボリジニの文化や伝統が、彼女を通して「多彩な表現」として溢れ出したと理解する方が私にはわかり易くなります。リコーダー奏者の花岡和生氏が「良い演奏とは?」と尋ねられて答えた言葉、「(奏者自身が)音楽が生まれる邪魔をしない事」とも何処かで重なって、私の理解を助けてくれます。小鹿田の新作問題で迷いの最中にある我が身には,先に少しだけ光明が見えた様な気がする貴重な経験でした
このカタログに添えられたエミリーと同じ出自を持つマーゴ・ニール女史の小文「意味のしるし」に、多くを教えられた事を感謝したいと思います。

2008年8月3日日曜日

真夏の日本で



先週日曜日の昼頃シドニーを発って、日本時間で午後9時半過ぎに無事大阪の関西国際空港にたどり着きました。出発が1時間遅れましたから、機内で10時間半近くを過ごした訳でいささか疲れました。それにしても、大阪の何という暑さ。
夜ですら28度,昼間は35度だったとか。シドニーとの気温差20度はこたえます。その日泊まる予定のホテルにたどり着いて荷物を改めて見ると,なんとオーストラリアで大活躍したデジタルカメラが見当たりません。新品ではなかったものの、正確な色の再現性と多彩な機能(ほとんど使いこなせず)そして少し古風な姿を好ましく思っていたので、ずいぶんがっかりしました。
シドニーの空港で出国検査の時に引っ張りだしたのは覚えているのですが,そこから先の記憶が曖昧です。娘を通じて,空港に問い合わせをしましたが見当たらないとの事。諦めるしかないのでしょうね。

それにしても,日本の工業製品の「商品」としての寿命の短さは驚くばかりです。私自身どうしようもない「物好き」なので、現行製品の中で気にいる物がないとしばらく待ってみる事にしています。なくしたデジタルカメラも、そうやって昨年春に買った物です。
日本の工業製品に見られる技術の突き詰め方は、戦後間もないソニーのトランジスターラジオに象徴される「軽く,薄く」と云うのが代表的な方向性です。それ自体が悪い訳ではないにしても、右から左まで皆同じと云うのが困るのです。或る製品がヒットすると、それに似た製品が市場に溢れるのは食品から自動車まで変わらない風景です。

倫理観の欠如ならびに「デザイン」と云う言葉自体に対する勘違い、としか言いようがありません。私の師匠であった倉敷民藝館 初代館長の外村 吉之介先生から伺ったお話しの中に、それを見事に説明出来るエピソードがあり、それを皆さんにご紹介いたします。
或る外国人(英国であったか米国であったか,はっきりしないのが困りものですが)とのお話しの中で,日本語の「装飾」にあたる言葉として、"decoration" "ornament"の2語が有り,その違いを先生が尋ねられたときの説明として"decoration"は"put on"デコレーションケーキの生クリームの様に、上に乗っているだけで構造そのものとは関わりが無い働きの事、"ornament"は丁寧に作られた工藝品の様に、構造そのものから帰結する働きを示す言葉との事。
上のエピソードになぞらえて言えば、本当のデザインとは材料、構造,機能を勘案してそこから必然的に導きだされる働きの事。
残念ながら,日本の工業製品のデザインについての考え方は、「商品」の上に乗せられるだけの「意匠」としての働きとしか考えていない様に見えます。30数年前に読んで感心した本、米国のデザイナーで教育者のヴィクター・パパネックの著書「生き延びるためのデザイン」(晶文社)を皆さんにご紹介してこの話を終わる事にします。

私の使っていたデジタルカメラは、パナソニックのDMC LX-1と云う型番のもの。今月22日に、LX−3の型番で新製品が発表されるらしく,いまどちらにするか迷っています。

2008年7月25日金曜日

ボンダイ界隈



メルボルンから帰って以来の数日、雨続きでモーガンが「Yoshinoriがメルボルンから、雨を連れて来た」と冗談を言う程です。今日は雨の降り方がとりわけ激しく、買物に出たくないと云う娘にかわって、夕飯の材料を買いに下の町まで出掛ける事にしました。娘夫婦の住むボンダイは,シドニーの中心から車で15分程のところに位置する海沿いの町。渚に大きな波が立つ事もあって,冬でもサーフィンをする人達で賑わう処です。さて,目指すは歩いて10分程の処にある、地元のスーパーマーケット「IGA Bondi」です。買物のリストを用意し地図を書いてもらい,念のため娘の携帯電話の番号まで控えて出掛けました。店の前まで来ると,なんと停電のため復旧するまで閉店しているとの事。長くは待っていられないので,先日娘と行った「有機食料品専門店」で買物をする事にして少し離れたその店へ。今日の夕飯は,日本の自宅でもよく作る「ポテトグラタン」を、私がつくる事になっています。残りのメニューは、サラダにステーキの予定です。量売りの野菜数種に、牛乳と牛肉を篭に入れレジに行くと、昨日道で娘が挨拶をしていたこの店のマネージャーのステファニーです。34ドルの支払いを済ませた後、隣のカフェでラテを頼んでアパ−トに戻りました。日本にいれば何でもない、買物や電話またバスや電車に乗ったり等の日常的な事柄が、仕組みが違う事と言葉の壁の問題で、とても越えられそうにない高い壁の様に見えてしまうのです。とりあえず,最初のハードルはなんとか飛べたようです。次の目標は、独りでバスやタクシーに乗って娘のアパートまで行ける様になる事です。(細君は,既に経験済みです)





2008年7月24日木曜日

冬のメルボルンにて





































































シドニー訪問を機に、21日から23日まで旧知の友ルイーズが住んでいるメルボルンを訪ねる事にしました。彼女は10年近く前、出雲の出西窯で1年間焼物の勉強をする為に来日。帰国する前、出西窯の数人の人達と、あまねやを訪ねてくれた事が縁で知り合いになった人です。他に,細君が小さい頃お世話になったベーカー神父さんをコロンバン会の神学校にお訪ねする事も大事な目的の一つです。

さて,21日の朝モーガンに送ってもらって空港へ。ローマ法王も、同じ日にシドニーを発つらしく大変な混雑ぶり。離陸後1時間と15分あまりでメルボルン空港に到着。出迎えに来てくれていたルイーズと再会を喜び合う。まず車で彼女の家へ。今は,母屋を友人に貸し、自分は裏の離れの工房に寝泊まりしている。その工房で,果物やサラダ、紅茶そしてカボチャのスープにパンで昼食。そのあと、ベーカー神父さんが引退後住んでいらっしゃるコロンバン会の神学校へ向かう。ルイーズも初めてとの事でさんざん迷った末,約束の時間に少し遅れて到着。ヴィクトリア様式で作られた大きく立派な(でも日本人の私には,少し馴染みにくくもある)建物だ。10年ぶりにお会いしたけれど,85歳の今も毎日歩き庭仕事をなさっているとの事で,お元気そうに見える。細君の花と庭仕事好きは,小さい頃神父さんの手伝いをして培われたものだから、いわば花と庭仕事のお師匠さんといっても良い。その時のご縁がいまだに続いて、ここにこうやって座っている事を考えると不思議な気がする。お茶を飲み、1時間程話しをしてお別れする。それから、その日泊めてもらう事になっているスージーのフラットへ。(彼女についての詳しい説明は省略)繁華な通りフィッツロイに面した4階建ての古いビルの最上階が彼女の住まいだ。聞けば1890年に建てられたものだとか。2つの寝室と広いリビング、台所とリビングに面して20坪くらいありそうな庭。歩いて10分位の所に、メルボルン美術館や公園がある便利なところ。夕刻、ルイーズの兄弟アスキンの家へ。

彼らとは、6年ぶりの再会。上の女の子が大きくなっているのにびっくり。骨付きラムとリゾット,サラダに勿論ビール(この日はダークビール)。しばらく話しているうちにアスキンが帰宅。その夜のあれこれの話題の中に,いまオーストラリアでキリスト教徒の割合がどの位か問題になり、調べてみるといま現在で16%。100年前は96%だから洋の東西を問わず,私達が何をなくし何をすてて来たかがはっきりする興味深い数字だと思う。10時頃アスキン家を辞去。
翌朝、近くのカフェで朝食の後メルボルン美術館へ。アボリジニ関係の展示を見る。ロビーに木彫の盾が10点近くあり、中の1・2点は特に美しいものだった。そばにアボリジニの人が書いた興味深いカードのメッセージあり。前の日にルイーズと散々話をした話題(グローバリズムと呼ばれるものが作り手に与える弊害について)への一つの見事な答え。彼によれば,それら作られた物は自分が何者であり、何処から来たのかを示す物である事(原文を書き留めるのを忘れた為,不正確だけれども)。つまり,表現は彼個人の物と云うより,自身の根っこを確認する行為であると云う事で非個人的な世界に属するものとでも言えば良いのか。
夜,スージーの招待でイタリア料理の店で食事。ルイーズ、ジャスティン,アスキンにアラベラと私。

翌朝、トラムに乗って国立ヴィクトリア美術館へ。アボリジニ関係のブースは展示替えの為,見る事できず残念。スージーのフラットに戻り、ビスケットとチーズにお茶でお昼。再会を約しルイーズに空港迄送ってもらい,夕刻、無事シドニーに帰着。