2009年4月29日水曜日

「子どもの本や」展示即売会







5月22日から24日まで、あまねや工藝店の2階に福岡「子どもの本や」の本を並べて、展示即売会を開く事になりました。以下の文章は、その即売会に際して店主の井上良子さんに頼まれて書いた文章に、加筆訂正して掲載するものです。

言葉をたどりながら本を読む事は、人にとってかけがえのない喜びのひとつです。その事を通して、人は生きる事の"真実"に触れると同時に、それら様々な本の中に時代や文化の違いを越えて、悩み、苦しみ、また喜ぶ自分と同じ人間(友人)を見出して共感し、励まされて生きていけるのだと思います。

しかし、私たちの生きている“今”という時代の中で、子ども達がそんな大切な“本を読む喜び”を自分のものにする事は、決してやさしい事ではありません。ゲームや携帯電話の問題をはじめとして、学校の国語教科書の貧弱さ或は読書感想文コンクール(本を読む喜びや楽しみの対極にある“競い合い”の様な気がします)に於ける課題図書のお粗末さ、また大きさや数を誇る一方、子ども向けの本に関して適切な選択のなされていない大型書店や公共図書館など。これら貧しい環境の一体どこで、子ども達が自分にとって大切な一冊に出会えるというのでしょうか。30年前、若い父親であった私もまたそんな状況の中で途方に暮れる一人でした。


ただ私の場合、幸いな事にその数年前から東京で「子ども文庫の会」を主宰する山本まつよさんの知遇を得た事で、子の年齢に応じた適切な本とは何か(子供が本を読む喜びを自分のものにする上で、欠く事の出来ない道筋をたどる為のもの)を知る事が出来、その後自分にとって大事な作家となった「ムギと王さま」のE•ファージョン、「ともしびをかかげて」のR•サトクリフ、「やぎと少年」のI•B•シンガー、「指輪物語」のJ•R•R•トールキンの他、ドリトル先生シリーズのH•ロフティングや「ツバメ号とアマゾン号」のA•ランサム等と出会う事が出来たのです。


’81年に、あまねや工藝店の催事として「フィリピンの手仕事展」を開催した折、講演会の講師として山本まつよさんをお招きした事がきっかけになって、翌’82年8月6日から8日まで、第1回「子ども文庫の会」の“初級セミナー”を、福岡で開く事が出来ました。数年後、年3回に増えたそのセミナーに’83年から参加し、25年続いたセミナーの半分近くを世話人として支えて下さった井上良子さんが、「子どもの本や」という名の児童書専門店を開いて10年。季刊「子どもと本」に紹介されている本で絶版のもの以外は、ほとんど揃っている小さいけれど素敵な本屋さんです。ここもまた“厳しく選ぶ事で訪れる人の数が少ない”という矛盾(でなく道理かもしれませんね)から逃れる事は出来ていませんが、店主である井上さんの“喜び”が店の隅々まで行き届いている、そんな居心地の良い場所になっています。


そしてこのたび、あまねや工藝店の2階に「子どもの本や」の本を並べ、展示即売会を開く事になりました。時間期日は以下の通り。3日間とも井上さんが居て下さいます。どうぞ、お子様連れでお出掛け下さい。ただ、小さなスペースなので走り回らない事と、大事な本なので大切に扱う事、この二つは守って下さいね。

2009年4月15日水曜日

書く事と話す事の難しさ


今月20日発売予定の「手の間」と云う九州一円を販売エリアにしている雑誌から、小鹿田の坂本工さんがらみで取材を受け、「あまねや工藝店」を私の談話の形で記事にして頂く事になりました。昔から地元の情報誌の取材等を通して、それらの記事が決まりきったセオリー通りにしか書かれない事に対する不満もあって、なるべくお断りする様にしていました。かつては、若かった事もあり書かれた記事に対して、直接書き手に文句を言ったりした事もあります。そんな事を繰り返すうちに、その手の情報雑誌からの取材はほとんど来なくなりました。

そんな私が、“何故、今回の取材を‥?”と仰るのですか。実は、この記事の書き手であるTさんには、以前別の雑誌で店の紹介をして頂いた事があり、その記事が珍しく何の不満もない良く書けた(と私には思える)ものだったのです。3月上旬に取材。昨年、「小鹿田新作展」の折に私が書いた文章も、資料としてお渡ししました。そして、ほぼ一月後の4月に写真撮りと、校正用の原稿を貰いました。その日午前2時まで掛かって、30カ所近い訂正箇所を書き上げ、翌日ファックスで送信。その後も粘り、つごう2回追加の送信をいたしました。この訂正の数が多いのか少ないのかわかりませんが、私が話した事をTさんが書き取り、資料を参照しながら私が話した様に書く。この行程の中で、私だったらこうは書かないだろう、あるいはこう書きたいと云うものから微妙にずれて行き、自分の中に一種の違和感が生まれた結果の訂正です。今こうして書いているブログの文章も、落ち着くまで細かく何度も手を入れています。最初に読んだ時から少し時間が経って再読してみると、どこか文章が違うとお思いになった方があったとすると、それはこう云う訳だったのです。さて、その原稿とは、

300年さきの小鹿田のスタンダードを創ること。
それが我々がやろうとしていることです。

私は小鹿田焼の坂本工さんを、伝統のものを過不足なく作れる数少ない陶工の一人だと思っています。小鹿田は民芸の世界で、宝の様に思われている土地です。しかし、全国の産地と同じ様にその名前にあぐらをかき、職人は自分の拠りどころというものを考えずにきた。現在の窮状を招いた、それが原因ではないでしょうか。私が感じている民陶への危機感が、工さんにもありました。彼は未来を見据えて、自分の仕事をより良くしようと努力しています。自分に足りないところがたくさんあると自覚している、そこがすごいのです。作り手は、自らの仕事を客観的に見る視点を持てた方が良いのです。私は30年前に店を始める時から小鹿田に通っていましたので、工さんのことは高校生の頃から知っていました。物つくりと店主としてのお付き合いは2005年からです。私は工さんに、小鹿田の未来に続く仕事の提案を一緒にしようと持ちかけました。つまり新たな”スタンダード”を提案し次世代へつなげようと。具体的には、2006年に「抽象紋の皿100展」と題した尺一寸皿の新作100点を発表。2008年には「無地シリーズ」として加飾抜きで模様の意味を改めて考える、作り手にとってはひどくつらい企画展を開きました。そして、工さんが無地と云うテーマと格闘する中から生まれた「白掛睡蓮鉢」が、2008年度の日本民藝館賞を受賞した事は私にとっても嬉しいことでした。
我々の試みは、「模様の発見」・「標準への提案」と続き、来年にはこのシリーズをいったん終える予定です。小鹿田に対してどういうスタンダードを提案出来るのか今は分かりませんし、我々がやっていることは、もしかしたらかなり際どいことなのかもしれません。ですが、「仕事を支える中心の部分を変えない」ということと、「時に応じて変化する」ということは、矛盾しないと私は考えています。もしもこの試みがいつかひとつでも形になって、小鹿田の地に根づき、静かに広がって小鹿田焼のスタンダードのひとつに数えられるようになれば・・・。これまでの三百年を考えるなら、三百年先に元をとるくらいの覚悟でやらなければならないだろうと思います。私はあくまでも、工さんが考えてもがき道を発見する、その手伝いをするというスタンス。どうやったら向こう側の世界へ橋が架けられるのか、それを一緒に考えているのです。

何処をどうさわったのか分からなければ成功ですが、でもどこか変でしょう?

2009年4月13日月曜日

西川孝次さんの事







昨4月12日から八女の「朝日屋酒店」で、広島県三原市在のガラス作家・西川孝次さんの吹きガラス展を開催中です。朝日屋さんでは一昨年秋に続いて2度目、あまねや工藝店では’95年以来都合8回目の開催になります。
修業時代から数えれば、30年以上になる西川さんの吹くガラスは、吹きガラスの先駆者・倉敷の小谷真三さん以降、最も説得力のある自分の定型(かたち)を獲得しつつある様に私には見えます。
そこで今回、’79年夏の沖縄で修業時代の西川さんに初めて出会った時の事も含め、私の初めての沖縄体験を皆さんにお話ししてみようと思います。
あまねや工藝店を開けて間もない’79年の夏、7000t程の琉球海運のフェリー「エメラルドおきなわ」で、博多から沖縄の那覇へ。
70年程前、柳宗悦を始め民藝同人の一行も、沖縄における手仕事調査の目的で、神戸港から沖縄に向け旅立っています。航路こそ違え、同じ海を渡る初めての沖縄への旅。意気高からぬはずがありません。
朝の10時に博多港を出港し、翌日の12時に那覇港到着予定の26時間の船旅、船による初めての長旅です。
乗船から日没までまる一日、九州西岸の深緑色の海の上を延々と南下。翌日の早朝、2等船室から風の吹き渡るフェリーの甲板に出てみると、目の届く限りの風景が、透明で鮮やかなトルコブルーの海に一変。感激しました。5、6時間の後、無事那覇港に到着。
それから博多に戻るまでの1週間の那覇滞在中、壷屋の焼物や首里の銀細工、又その頃同地に在った日本民藝館・沖縄分館などを始め、市内のガラス工場や嘉手納基地の近くに在った「牧港ガラス」、そして中部にある出来たばかりだった読谷村の「やちむんの里」まで、可能な限り歩き回りました。当時は車の免許も持っていず、読谷村に行くのもバスでの往復で、ほぼ一日がかりでした。
そんなある日、国際通りの裏手(だったか)にあった小さな映画館で見た一本の映画が忘れられません。
その映画とは1979年3月日本公開の映画、「ディアハンター」でマイケル・チミノの監督、ロバート・デ・ニーロやメリル・ストリープの主演でベトナム戦争をテーマに取り上げた作品です。この映画の有名なロシアンルーレットの場面もさることながら、見終わった後に感慨深かったのは、ベトナム戦争が終わってまだ僅か7年しか経っていないと云う事に思い当たった事。しかも、戦争中ベトナムに向けて米軍が盛んに出撃を繰り返していた、「嘉手納基地」のあるこの沖縄(映画の主人公達マイケル、ニック、スティーブンの3人もここからベトナムへ飛んだに違いない、云わば“なま”の現場の一つ)でこの映画を見た事。映画のあと外に出て、強烈な南国の日差しの中で飲んだ瓶入りのコカ・コーラが明らかに内地のものとは違う濃密な味がした事。これらの事が、沖縄で見た他の何よりも強く私の記憶に残っています。
さて本題に戻り、西川さんと私が「牧港ガラス」で出会った事です。
これは’94年の春、鳥取の「山本教行家」で西川さんの吹いたガラスの大皿と水差しに出会い、山本さんに御紹介頂いて、その帰り道15年ぶりで西川さんと再会し、お話しする中で初めて明らかになった事なのです。待ち合わせ場所の高速道路インター近くまでバイクで現れた西川さんに先導されて、仕事場へ。挨拶をし、(例によって)厚かましくご飯を御馳走になり、話が弾んで(これもまた)泊めて頂く事になって、あれこれの話をするうちに西川さんの名刺入れの2番目に私の名刺が入っているとの事。驚きました。前を走る道路から少し下がった所にある工場や、明らかに内地とは違う高床の“あずまや”みたいな職人の休憩所がある、牧港の工場の佇まいは良く覚えていますが、そこで牧港ガラスの社長が私を西川さんに引き合わせて下さった、と云う事なのです。西川さんには申し訳ない事ながら、その時の事は何も覚えていません。
’94年以前にも、実は催事のDMで西川さんのガラスの仕事を眼にしたりしていたのですが、その時は何故だか心が動きませんでした。
とはいえ、ご縁があったのでしょうね。
今回の8回目になるガラス展は、新作の緑と黄の組み合わせによる瓶や杯、花入の他、定番のタンブラーやガラス小鉢、またワイングラスやピッチャーなど、あぶなげない仕事が100種類程並んでいます。福岡はすでに終了していますが、八女は19日の日曜まで見て頂く事が出来ます。
最初の写真は、「あまねや工藝店」で次の2枚は「朝日屋」さんです。2枚目の写真に、ワインが入って来た木箱を利用して作った棚や、奥に横たわっているワインの瓶がご覧頂けると思います。ガラスの作品と酒瓶が、違和感なく実に上手く馴染んでいるのです。