2009年4月13日月曜日

西川孝次さんの事







昨4月12日から八女の「朝日屋酒店」で、広島県三原市在のガラス作家・西川孝次さんの吹きガラス展を開催中です。朝日屋さんでは一昨年秋に続いて2度目、あまねや工藝店では’95年以来都合8回目の開催になります。
修業時代から数えれば、30年以上になる西川さんの吹くガラスは、吹きガラスの先駆者・倉敷の小谷真三さん以降、最も説得力のある自分の定型(かたち)を獲得しつつある様に私には見えます。
そこで今回、’79年夏の沖縄で修業時代の西川さんに初めて出会った時の事も含め、私の初めての沖縄体験を皆さんにお話ししてみようと思います。
あまねや工藝店を開けて間もない’79年の夏、7000t程の琉球海運のフェリー「エメラルドおきなわ」で、博多から沖縄の那覇へ。
70年程前、柳宗悦を始め民藝同人の一行も、沖縄における手仕事調査の目的で、神戸港から沖縄に向け旅立っています。航路こそ違え、同じ海を渡る初めての沖縄への旅。意気高からぬはずがありません。
朝の10時に博多港を出港し、翌日の12時に那覇港到着予定の26時間の船旅、船による初めての長旅です。
乗船から日没までまる一日、九州西岸の深緑色の海の上を延々と南下。翌日の早朝、2等船室から風の吹き渡るフェリーの甲板に出てみると、目の届く限りの風景が、透明で鮮やかなトルコブルーの海に一変。感激しました。5、6時間の後、無事那覇港に到着。
それから博多に戻るまでの1週間の那覇滞在中、壷屋の焼物や首里の銀細工、又その頃同地に在った日本民藝館・沖縄分館などを始め、市内のガラス工場や嘉手納基地の近くに在った「牧港ガラス」、そして中部にある出来たばかりだった読谷村の「やちむんの里」まで、可能な限り歩き回りました。当時は車の免許も持っていず、読谷村に行くのもバスでの往復で、ほぼ一日がかりでした。
そんなある日、国際通りの裏手(だったか)にあった小さな映画館で見た一本の映画が忘れられません。
その映画とは1979年3月日本公開の映画、「ディアハンター」でマイケル・チミノの監督、ロバート・デ・ニーロやメリル・ストリープの主演でベトナム戦争をテーマに取り上げた作品です。この映画の有名なロシアンルーレットの場面もさることながら、見終わった後に感慨深かったのは、ベトナム戦争が終わってまだ僅か7年しか経っていないと云う事に思い当たった事。しかも、戦争中ベトナムに向けて米軍が盛んに出撃を繰り返していた、「嘉手納基地」のあるこの沖縄(映画の主人公達マイケル、ニック、スティーブンの3人もここからベトナムへ飛んだに違いない、云わば“なま”の現場の一つ)でこの映画を見た事。映画のあと外に出て、強烈な南国の日差しの中で飲んだ瓶入りのコカ・コーラが明らかに内地のものとは違う濃密な味がした事。これらの事が、沖縄で見た他の何よりも強く私の記憶に残っています。
さて本題に戻り、西川さんと私が「牧港ガラス」で出会った事です。
これは’94年の春、鳥取の「山本教行家」で西川さんの吹いたガラスの大皿と水差しに出会い、山本さんに御紹介頂いて、その帰り道15年ぶりで西川さんと再会し、お話しする中で初めて明らかになった事なのです。待ち合わせ場所の高速道路インター近くまでバイクで現れた西川さんに先導されて、仕事場へ。挨拶をし、(例によって)厚かましくご飯を御馳走になり、話が弾んで(これもまた)泊めて頂く事になって、あれこれの話をするうちに西川さんの名刺入れの2番目に私の名刺が入っているとの事。驚きました。前を走る道路から少し下がった所にある工場や、明らかに内地とは違う高床の“あずまや”みたいな職人の休憩所がある、牧港の工場の佇まいは良く覚えていますが、そこで牧港ガラスの社長が私を西川さんに引き合わせて下さった、と云う事なのです。西川さんには申し訳ない事ながら、その時の事は何も覚えていません。
’94年以前にも、実は催事のDMで西川さんのガラスの仕事を眼にしたりしていたのですが、その時は何故だか心が動きませんでした。
とはいえ、ご縁があったのでしょうね。
今回の8回目になるガラス展は、新作の緑と黄の組み合わせによる瓶や杯、花入の他、定番のタンブラーやガラス小鉢、またワイングラスやピッチャーなど、あぶなげない仕事が100種類程並んでいます。福岡はすでに終了していますが、八女は19日の日曜まで見て頂く事が出来ます。
最初の写真は、「あまねや工藝店」で次の2枚は「朝日屋」さんです。2枚目の写真に、ワインが入って来た木箱を利用して作った棚や、奥に横たわっているワインの瓶がご覧頂けると思います。ガラスの作品と酒瓶が、違和感なく実に上手く馴染んでいるのです。

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