2009年6月15日月曜日

“旅で見つけた”工藝の愉しみ 展 始まる






先週の金曜日に、11ヶ口の大荷物が横浜のOさんから到着。前日から帰福中の長男に手伝ってもらい、およそ3時間で荷解きが終了。午後4時頃から品物を並べ始めたものの、終わったのは翌日の午前1時を過ぎていました。荷物を2階に運び上げ作業を始めてみても、全体をどうまとめて今回の催事らしく作り上げれば良いのか、悩んだ結果です。幸い初日の13日には30人程のお客様が来て下さり、胸をなでおろしました。

2009年6月11日木曜日

友の引っ越し





真面目な仕事ぶりで評価の高い珈琲屋のM君が、仕事場である店を繁華な町中から緑が一杯の現在地に移してほぼ1ヶ月。先日店を訪ねた折、店内の写真を撮って来ました。5坪程だった前の店からすると、席数は2倍近くと広くなり、珈琲を飲む場所も2階になったので気持ちの良さは格別です。私が1978年に今泉の店を借り、自分で内装を始めた頃からの友人ですから、ずいぶん長い付き合いです。
珈琲の事をとことん突き詰めて考え、産地であるイエメンやエチオピアまで出掛けて行く様な仕事ぶりで、ファンを増やし福岡の名店と言われるまでになりました。今度の引っ越しを、同君の為にも喜びたいと思います。

2009年6月6日土曜日

嬉しい買物・困った買物



店を始めてまもなくの頃、約30年前に一度だけ生前の丸山太郎氏(長野県松本市にある「ちきりや」の初代店主であり、松本民藝館の創設者)にお会いした事が有ります。その時は多分東京の帰途、松本に廻り初対面の丸山さんに刺を通じたのだろうと思います。そのとき私は店で扱うつもりでいた印度更紗の端切れの見本帳を持ち、ぶしつけながら同氏に目を通して頂けないかお願いをしてみました。その私の必死の思いと、思いの裏にある「買ってもらえるかもしれない」という私の淡い期待など、はなからお見通しで「見るだけですよ!」と念押しをした上で、見て頂く事が出来ました。それでも念入りにご覧になった後、良い仕事だと評価して頂いて嬉しかったのを覚えています。その後、店の中を先に立って案内して下さりながら「松本は観光地だから、(大勢来る観光客に依存する私の)店に置く品はそれほど厳しい選び方をしていない。貴方(私の事です)の様な(厳しい)選択で店をやっていくのは大変だろう。」と仰ったのを、少しはぐらかされた様な思いで聞いたのを覚えています。その時松本民藝館が出来ていたのかどうか確かではありませんが、私の見た民藝館は、陳列ならびに集められた物に一切の妥協なく、それ自身が実に美しい丸山さんの表現になり得ていた事に感銘を受けました。丸山さんが亡くなられた後に見た松本民藝館は大きく様変わりして、残念ながらまるで別のものになっていました
物を商う仕事の中で、自分の思いと実際の仕事の上での落差をどう補い、先に進めて行くのか店を始めて30年経ったいまも、私には解決出来ていない問題です。写真はこの13日から始まる「旅で見つけた 工藝の愉しみ 初夏展」に出品予定の嬉しい買物の一部と、私自身の困った(to do or not to do)買物(実はどちらも私には嬉しい買物)です。

2009年6月3日水曜日

上京 その2


今回の東京行きの目的は、5年前“お互い元気でいたらやりましょう”と約束していた丹波のSさんの個展が、ご本人の体調不良と幾つかの事情で1年半繰り延べになり、そのままスケジュールに穴をあける訳にもいかず、横浜のOさんにお願いして引き受けて頂いた催事「工芸の愉しみ」の物選びと二、三の展覧会を見る為です。以下日記より、

バスは予定通り5月27日9時20分新宿着。山手線に乗り換えて最寄り駅の渋谷に向かう途中、何気なく車内の案内表示を見ると“人身事故のため東横線が全線運休”とか。渋谷で降りず、そのまま品川まで行き京浜東北線に乗り換えて桜木町駅に向かう。久しぶりのバスに乗り換え、港の見える丘公園で下車。
少し下ってOさん宅へ、案内を乞うとほぼ11時。
不意の事故にもかかわらず遅れる事なく到着出来て、まずは一安心。Oさんとご挨拶の後さっそく物選びを始め、4時間程掛けてインドの布類ほか催事の柱になる物を選ぶ。急だったけれど、何とかなりそうで嬉しい。物選びの後、Oさんに馬車道の勝烈庵でトンカツを御馳走になる。(ここは棟方志功の肉筆画が店内に飾ってあるので有名)
夕刻、会社帰りの長男と恵比寿で待ち合わせ「山長」と云ううどん屋で鴨をあぶったものや天婦羅で一杯飲む。べらぼうな値段でもなく、うどんも美味しくて大満足。
さて翌日の木曜日は、35年来のオーディオ仲間F君の自宅へ。彼は最近自宅の大型システム(米国東海岸のBozak製)にJBLの075と云う名器の誉れ高いホーントゥイターを載せ、鳴らし始めたばかり。常識からすると、違う会社のしかも米国の東と西という風土の大きく異なる機器同士の相性が良いとはとても考えられず、どんなにひどい音を聞かせられるかと半ば覚悟して出掛けたところ、期待を裏切る素敵な音が聞こえて来て本当に驚いた。
ラインアップは、いつものマランツの7と8B、そしてデンオンの放送局用の大型プレーヤーにカートリッジのオルトフォンSPUを付けたもので、主に女性の声(他にカウントベイシーなど)を聴く。どのソースにも概して云えるのは、中域が厚くて(SPUのおかげか)音の隈取りがきつすぎず、それぞれの(顔というか)声を美しく聞かせているところで、予想していたJBLの音とはまるで違う。(この辺りまでの話、娘には退屈と云われました。興味のない人にはその通りでしょう、すみません。)その後町に出て、中古のCDやLDを10数タイトル買う。全盛時代には、私には手が出ない程高価だったLDが今や、ほぼ10分の1の値段(福岡ではソフトに是ほどのヴァラエティは期待出来ない)。
オペラを聴くとなると、私にはCDよりもLDの方が字幕スーパー付きでもあり有難い。そうやって、東京に出る度(と言っても一年に一度)買ったものが、ようやく30タイトル程。音楽との付き合いは民芸の世界のそれよりも古く、私の大きな(唯一のと云えないところが辛い)愉しみのひとつなので、細君にもお許し願うしかない。
土曜日は東京滞在最終日。この日は、井の頭線の神泉にあるギャラリーTOMで開催中の柚木沙弥郎展を見に行く。この建物は、私と同世代で最も好きな建築家の内の一人、内藤廣の初期の仕事の一つで、元々は視覚に障害を持つ人達の為のギャラリーとして建てられたものだ。ずいぶん前から雑誌で見知ってはいたものの、初めて訪ねたのは2年前、やはり「柚木沙弥郎展」の折。今回の「柚木展」は、この秋予定されているパリ展の「試運転」なのだとか。小さなギャラリーなので展示されている点数そのものは決して多くはないけれど、中の1点「猫のしっぽとステッキの柄」模様(と私が勝手に名付けた)を併せて屏風仕立てにしたものなど、抽象度を高めながら難解な風は微塵もない、今の柚木の立つ場所をはっきり見せてくれる作品のように見えて、今秋のパリでの作品展の成功が約束されているように私には見えた。その後、駒場の民藝館で開催中の「棟方志功の書と倭画展」へ。入ってみると、顔見知りのSさんが受付に。そして上にやはり旧知のTさんがいるとの事。上に行き挨拶して話を聞くと、この5月から正式に民藝館の嘱託になったとの事。長い事、アルバイトで食いつなぎ民藝館の仕事をして来た同君なので、彼の為に嬉しかった。見終わった後、奥で御茶を頂き長男を二人に紹介して(Sさんとは歳も近く、今度は親父抜きで来るように云われていた)、民藝館を後に。その後4、5年振りで目白の古道具Sへ、数点の買物。それから、タクシーで元代々木のYさんの事務所に行き、渋谷で揚州料理を長男ともども御馳走になり、9時頃お別れしていったん長男のアパートに。シャワーで汗を流した後、東京駅八重洲南口のバス乗り場から23時59分発大阪行き夜行高速バスで、千里ニュータウンへ。
何故だか、ほとんど一睡も出来ず翌朝8時頃桃山台駅着。モノレールに乗り換えて、大阪日本民藝館まで。開催中の「茶と美」展を見る為なり。東京のSさんやTさんも関わった展示と聞いていたので、楽しみ。予想通りの名品揃い。手に取りたいものだらけだったけれど、かなわず眼で触る。大きなウィンドウの展示(大阪でしか見られない、私の最も好きな場所の一つ)も美しく並べられ、気持ちが良い。珍しかったのは同人作家の茶碗や、仕服などに添えられた柳の「箱書き」がそのまま、見られるように添えてあった事。柳の眼とこれらのものが出会った時の熱気の名残が見えるようで、見応えがあった。

その後京都で仕事(良い物が買えました)をし、夕方の新幹線で無事帰福。新幹線で移動するといつも勿体ない(その料金だけでなく、ここには何が有りそこには誰が居る、といつも途中下車したくなる)気持ちが拭えません。短くはあったものの、中身の濃い5日間でした。

上京 その1

「子どもの本や」展示即売会を無事終えた翌々日の26日、夜7時発東京行きの夜行高速バスで一年ぶりの東京へ。その日の午後いつものように店まで庭の花を取りに来たKさん(時々細君が庭の花を差し上げているので)。私がよほど嬉しそうな顔をしていたと見え「どうしたのか?」と御尋ねの後、上京する旨伝えると何をどう誤解されたのか「いやらしかー!」と一言。仕事に行くのです、Kさん。
さて私が上京する場合、一番多く利用するのが夜行の高速バスです。これまで様々な東京への行き方を試して来ました。ある時期は船。
一度だけでしたが、東京まで船で出掛けた事も有ります。二昼夜、36時間。これはさすがに長過ぎました。大半の積み荷が大型トラックの後部コンテナのみで、二等客室の広い広い部屋に船客はほんの数人、数える程しかいません。夜やすむ際の毛布利用料も高く、食堂のメニューも貧弱です。でも楽しい事も有ります。船底にあるお風呂まで、2・3人も乗ればいっぱいになる様な小さなエレベーターで下り、湯船につかっていると湯船の湯が船の揺れに応じて大きく揺れ、時に浴槽の外へ。豊後水道から、四国足摺岬沖、紀伊半島の沖を通って東京まで行く際、大きく揺れるポイントが数カ所あるのです。この経験の後、船は小倉から大阪あるいは神戸まで(小倉を夜に出て瀬戸内海を通り、朝早く目的地に着く約8時間の旅)にしました。着いたその日は大阪や京都で仕事をし、その日の夜また夜行のバスで東京に向かう、こんな繰り返しでした。30代のある時、三晩続けて夜行バスを利用して、福岡から岩手県の盛岡まで行った事も有ります。昼間はもちろんそれぞれの中継地でしっかり仕事をするのです。’82年頃雑誌『銀花』紙上で畏友・見田盛夫が『乏しい元手で各地を回り、出西や壺屋の焼物またインドの真鍮の煙草入れを集めて来たりする・・・』と紹介してくれたのがこの頃です。さすがに今はこんな事は出来ません。上京にバスを使う一番の理由はその経済性ですが、それだけではありません。東京行きの夜行バスは九州自動車道から山陽自動車道を通り、その後名神を抜けて、中央自動車道を経由し新宿の西口まで
約1200Kmを、およそ14時間半かけてたどり着くのです。
夜が明けると、最初の降車地が諏訪湖サービスエリアです。休憩後の3時間、諏訪湖から新宿西口までの車窓の風景が素晴らしいのです。
南アルプスの麓を縫い富士山を裏側から見ながら、甲府盆地を抜け新宿まで。とくに春など、まわりの南アルプスの山の頂きには雪が残り、盆地内は梅や桃、杏、桜等が一斉に咲きそろいまるで夢の中の風景です。この3時間の為だけに、バスを使うと云っても言い過ぎにはなりません。
今はなくなった、上野発の夜行列車を利用するときも楽しみがありました。夜遅い発車予定時刻まで、上野の文化会館でコンサートを聴き時間をつぶすのです。なんと贅沢な時間!翌朝、早い時間に目的地に到着。約束の時間に間がある時は地元の温泉や共同浴場にはいります。宮城県の鳴子など、そうやって何度通ったでしょう。それからもう一つだけ、どうしても言っておかなければならない事があります。東京での宿の事です。ここ10年程は、長男の住むアパート(6畳二間風呂無しで3万円)でしたが、最初の頃は友人の家に5日続けて泊めてもらったり(F君有難う)、山本まつよさんの事務所にご厄介になった事も有ります。そんな時の楽しみは、なんといっても銭湯です。友人のF君(前述のFとは違うF君)と行く荻窪にある飲屋の隣が銭湯で、良く利用しました。今回も久しぶりに出掛け愉快でした。近年、うちで催事をやる人に自宅に泊まってもらうのも、こんな東京での経験があるからです。ご恩返しのつもりです。東京や大阪で見た展覧会に触れる時間が無くなりました。それはまた次回。