2015年8月17日月曜日

忘れられないもの 4(タイの灰釉の焼きもの)

福岡書芸院発行の冊子「たんえん」7月号掲載の記事、「忘れられないもの 4(タイの灰釉の焼物)」をお届けします。

今日は、先月のこの欄で書いた福岡市営地下鉄工事に伴う「遺跡発掘アルバイト」から約10年後の1992年春、その現場での人の関係が御縁で始まった福岡市博物館•ミュージアムショップの仕事にまつわる話をいたしましょう。ミュージアムショップの話を持って来てくれたのは、当時、福岡市博物館の学芸課に勤務、発掘アルバイト当時は現場の補助監督をやっていた I さんです。I さんによれば、アジアに向かって開かれた都市•博多にふさわしく福岡市博物館のミュージアムショップとしては、アジアのものを中心に世界の産品(民藝品の様なもの)を紹介して行きたい、と云うのです。引き受ける決断はすぐにしましたが、ショップ用に品物をそろえる肝腎の元手がありません。そこで、私の商いのコーチ役とでもいうべき倉敷のNさんに相談しました。いろいろ事情を聞いて頂いたあげく、品物の形で400万円分程を貸して頂き、仕事を始める事になりました。

始まる年の一月。Nさんに連れられ、初めてタイのチェンマイまで品物の買い付けに出掛けました。大阪•伊丹空港からバンコク経由、チェンマイまで。チェンマイ到着は夜遅くで、空港から市内までのタクシーに乗る事ひとつを取ってみても、私自身何だか恐る恐るで及び腰だったのを覚えています。Nさんが常宿にしている川近くのホテル到着後、ひと休みして(たぶん午後10時過ぎ位から)市内のナイトバザールに出掛けました。初めての経験でもあり、出掛ける前はひどく緊張していたのが、バザールを歩く内に段々と気持ちがほぐれて来て、肩の力が抜けて行く感覚は今でも鮮明です。買い物はそのナイトバザールを始め、市内の荒物屋や各種問屋など。山積みになった品の中から好きな物を選ぶ楽しさ、これは仕事冥利に尽きる経験でした。こうして集めた品は自分でダンボールに詰めて、市内の郵便局から航空便で送ります。今回ご紹介する灰釉の焼物のうち、大きな筒鉢と型物の碗は、その時そうやって手に入れたタイの陶器です。幸いと云うべきか、この二点は壊れて届いたものですから、共に私の手元に残す事が出来ました。大きい筒鉢は後に前崎鼎之さんがブリキで蓋をあつらえて下さり、点茶稽古用の水指として今でも時々使います。灰釉碗は若干手取りが重めですが、径が五寸程のまことに使い易い大きさの品です。筒状の二点は、後に市内の古道具屋で買ったタイの古い時代の仏花器です。背の低い方は我家の仏壇で線香立てとして使っています。

灰釉の焼きもの三種
径が六寸程の筒鉢
五寸程の径の灰釉碗
仏花器か?


スナオ君の新しい店

2012年11月を初回として、その後の数回、あまねや工藝店二階を会場に季節の美味しいもので私達を満足させてくれた、“出張割烹すなお”の平河直(ヒラカワスナオ)君が、佐賀県唐津市の鏡山(カガミヤマ)山麓に念願の自分の新しい店「あるところ」を開店したのが今年の6月の末です。開店祝いを兼ね先週の日曜と一昨日の2回続けて、友人や家族と出掛けました。建物は鏡山の麓に建つ築130年の古い農家を1年かけて自分で改装したもので、未だ工事は継続中との事。
母屋に続く道に踏み石が据えてあり、ゆるい坂を上りつめ木製の建具をくぐると、十坪程の土間の左手奥に竃や水回り。その隣に一間四方位の板を載せた配膳台兼用の自作の調理台、下が食器入れにもなっていて、なかなか使い易そうです。そこを舞台にして、様々な美味しいものを出してくれました。少しご紹介しましょうか。

母屋の前に立つスナオ君
室内が御飯を炊く竃の煙でけぶっています
右手には座敷が二間
スナオ君が釣り上げたウナギの蒲焼き
季節野菜の煮浸し
いさきの藁あぶり
鯛の潮汁
佐賀牛のロースト
大きな金目鯛の煮物
竃で炊いたタコ飯
冷たい葛切り

2015年8月2日日曜日

忘れられないもの 3(似たもの同士)

福岡書芸院発行の冊子「たんえん」6月号掲載の記事、「忘れられないもの 3 (似たもの同士 )」をお届けします。

左側の一番大きい安南鉢から
時計回りに中国 • 西安鉢、手前が涌田窯のマカイ

「あまねや工藝店」開店2年目の冬。店の売り上げだけでは生活出来ず、家族を養う為「土方(土堀り)」のアルバイトを始める事にしました。これは福岡市教育委員会•文化課の仕事で、当時盛んに行われていた福岡市営の地下鉄工事に伴い発見される、市内各所に散らばる遺跡発掘の仕事です。初めての現場は、弘法大師•空海と縁の深い真言宗の大寺•南岳山東長寺近くの博多区祇園町のマンション建設予定地です。
朝8時30分始業、昼食休みのほか午前と午後に一回ずつ15分の短い休憩をはさみ午後4時30分まで、週五日の仕事です。仕事に慣れるまでの2•3週間は疲れて仕方がありませんでしたが、30代初めの身体は適応力があるんですね。だんだん平気になり、何とか毎日が勤まる様になって来ました。その代わり昼頃にはお腹が空いて空いて、二合のご飯とおかずをぎっしり詰めた曲げワッパの弁当(ドカベン)を持って行かないと、体が持たなくなりました。

そんな具合に始まったアルバイトでしたが、私にとってこの仕事は興味深くも素晴らしい経験になりました。現場は、現場監督を務めるMさんおよび補助役のIさんのほか、現場作業員の半分以上は西区から引き続きこの仕事を続ける「農家のおばちゃん達」で、残りは食えない歌手や絵描きに工藝店主など。年齢も20代から70代までと、実に多様なこと驚くばかりです。
ところで、六世紀頃から中国大陸や朝鮮半島に向かって開かれていた歴史を持つ博多(那の津)の町は、いま私達が立っている地面からわずか3メートル程下に、約800年前の鎌倉時代の地層(砂地)が広がっています。その砂地が出てくると、それまで男衆が大きなシャベルを使って上げていた土を、ベテラン作業員の「おばちゃん達」が、小さなスコップを手に実に様々な品を慎重に掘り上げて行きます。
ある時は、宋代の白磁の碗が重なって出てくるかと思えば、次には欠けた瀬戸の黒釉の天目碗、或は12世紀頃のものとおぼしき井戸側に使われた桶が、痩せてその跡が砂地の上に丸く紐状に残っているもの等。それらを見ると、1000年近く前の時代と云っても、いま生きている私達と同じ人間がその時代にもいて「普通の暮らし」があった事が、物を通して妙に生々しく実感されると共に、人の想像力を大きく超える程ダイナミックな、文化や品物の交流が行われていた事に気がつかざるを得ません。

左が西安鉢、右が安南鉢
涌田窯(わくたがま)のマカイ

つい前置きが長くなりました。今回ご紹介するのは、そんなダイナミックな品物の交流の跡が見える様な、互いに良く似た碗(鉢)三種です。一番大きなものは安南系の6寸程の焼物で、鉢と言って良い位の大きさを持つ品です。裏を返すと高台の削りが荒々しく、精気に富んで素晴らしいものです。奥の小鉢は4寸程で、現代の中国•西安(昔の唐の都•長安)で出来た型物の小鉢です。少し浅めですが実に使い易く、我が家の食卓に登場する頻度は一番かも知れません。
安南系の鉢と二つ並べて撮った写真を見ると、鉢の内側の印象もそっくりな事に気がつきます。一番手前のこれも4寸程の飯碗はほぼ300年前の沖縄•涌田窯(わくたがま)のマカイ(飯碗)です。無地でもあり静かな印象の焼物ですが、形の何処にも緩んだ処がなく、かといって外側をなぞっただけの仕事にありがちな堅さ窮屈さもありません。
これも(大量に作られたという意味で)数に裏付けられた、「名を立てぬものの美しさ」を持つ仕事の一つです。